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名前:月友(Android/924-44春猫)
2017/11/29 00:57
 
氣が練れてる時に適度に歴史を語るスレです。
ちょくちょく独自研究を挟んだりしてますので鵜呑みにしないようにしてください。


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名前:月友(Android/924-44春猫)
11/29 01:07
 
【後漢末に現れた最強の人物鑑定眼の持ち主を紹介】

陰脩の字は元基。南陽新野の人である。南陽出身となると後漢初期の陰麗華の血族の後裔の可能性が極めて高い。

『漢末輔臣賛』の一部を書いてみる。
漢末為潁川太守、挙五官掾張仲方正、察功曹鍾ヨウ、主簿荀ケ、主記掾張礼、賊曹掾杜祐、孝廉荀攸、計吏郭圖為吏。

陰脩が潁川太守になると人物収集を行い登用した。

張仲、鍾ヨウ、荀ケ、張礼、杜祐、荀攸、郭圖(郭図)

↑陰脩はマジで優秀過ぎる。まるで三国志のプレイヤー並みの手際だよ。つか曹操は二番煎じだったのか(笑)

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名前:月友(Android/924-44春猫)
11/29 01:25
 
【袁徽を語る】
袁徽の字は曜仁。
陳郡袁氏の出である。汝南袁氏は陳郡袁氏から派生したとされているため、汝南袁氏は言わば同族と言われている。
叔父の袁滂(字は公熙)は司徒であり、その袁滂の子の袁渙(字は曜卿)は劉備の推挙で曹操麾下に加わった。その袁渙の従弟が袁徽である。
兄である袁覇は曹操仕えていたが、袁徽自身は儒者であったため曹操には仕えずに野に下っていた。

ある日袁渙は袁徽に言った。

袁渙『漢室は陵遲した。まもなく乱れ、天下が擾攘したら何処へ逃げようぞ?もしまだ天道喪わず、民に義が在ればこれを守る。そうすれば身を庇う事が出来る』

注:陵遲とは丘がへこむ事。衰退の意。
注:擾攘とは帝権の移譲の事。王朝滅亡の意。

袁徽『古人は言った。機を知るは神通。時機を見て動くからこそ君子は安全な場に居られる。天理盛衰。このままでは漢は滅びそうだ。そうなれば大功を上げる事業が必要だ。それにはまずは君子の気持ちを識るべきだ。そして君子に知られずにこの地を退く準備をする。兵乱が起きれば、私は山海へ行く。そうすれば身を庇う事が出来る』

注:ここで言う『身を庇う』とは自身では無く天子を指してるようだ。

袁渙は引き続き漢室と民を守る事を唱えた。袁徽は献帝の長安脱出計画を行い、自身は山海へと落ちると唱えた。

袁徽の思惑どおり事が運び、献帝は脱出。袁徽は交趾へと落ちた。

後に袁徽は司徒になるよう招聘を受けた。交趾から許へ向かう途上で卒した。一説では100歳まで生きたとも伝わる。(山海と言うから仙人扱いされてる様子)

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名前:月友(Android/924-44春猫)
11/29 02:13
 
【陶謙の初平年間での出来事に注目】
陶謙は董卓亡き後に朱儁を太師に推して献帝を迎えようとした。解体した諸侯連合の盟主になろうとしていた節があります。
(まぁその前に朱儁が陶謙誘って董卓退治を試みるも返り討ちにされた経緯ある。故に以前から盟友みたいな感じではある)
陶謙のWikipediaを見るとこの太師推薦には孔融と鄭玄ぐらいしか賛同者が居なかったとあるが、調べてみると結構な人数を揃えている。

【陶謙の諸侯連合計画賛同者一覧】
徐州刺史 陶謙
揚州刺史 周乾(前任)
沛相 袁忠
北海相 孔融
東海相 劉馗
彭城相 汲廉
琅邪相 陰徳
泰山太守 応劭
汝南太守 徐キュウ
九江太守 服虔(前任)
鄭玄

流石にヤバいと感じた賈クと周忠(周瑜の従父)は連合瓦解を誘うため朱儁を献帝の名を持って長安に召還します。(朱儁は洛陽が任地)
次に馬日テイと趙岐が関東に派遣され、陶謙懐柔及び公孫サン・袁紹の和解に乗りだします。

ちなみに馬日テイと趙岐は姻戚関係。馬日テイの従父は馬融。その馬融の娘は袁隗の妻。さらに馬融の門下には鄭玄などがいるため、交渉するに相応しい人選だと言える。

こうして陶謙は馬日テイや王朗に説かれたりして懐柔。計画が流れました。

↑やっぱり三国志は面白い。こっそりと袁忠が出てきて私歓喜(笑)

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名前:月友(Android/924-44春猫)
11/29 02:28
 
【陶謙の歴史ダイジェスト】
@陶謙は丹陽出身。しかも丹陽兵使いである。(めちゃ強い揚州傭兵の集団。かの曹豹も丹陽出身と言われてる)
A県令から幽州刺史となる。時代的に北狄の越境が頻繁だったから、おそらく匈度や鮮卑を退けていたと思われる。(証拠は無いw)
B都に召還され議朗となり、涼州の韓遂討伐に参加。なおこの討伐に参加したメンバーは張温、孫堅、陶謙、董卓、公孫サン。余談ではあるが参加を希望した張純は拒否され反乱(張純の乱)を興す。公孫サンが討伐に当たるが張純が逃げ切る。そして劉虞が登場するわけだが…
C徐州での黄巾残党掃討のため徐州刺史となる。孫堅とは友好的で掃討には朱治も参加している。
D反董卓連合(諸侯連合)には不参加で戦力温存。避難民が徐州に集まりだす。
E董卓亡き後に朱儁を盟主にした第二次諸侯連合を画策するが説得されて挫折。そのまま献帝に帰順して安東将軍・徐州牧となり侯を受爵。王朗を会ケイ太守に推挙して揚州に足掛かりを作る。なお王朗の子は王粛。王粛の娘は王元姫。もし陶謙の推挙が無ければ晋の司馬炎は生まれなかったと思われる。
F袁家内で対立。袁術側に孫堅、公孫サンが付く。陶謙も公孫サンに呼応する形で袁術側に入る。
G袁術が曹操に敗れて寿春に入る。この辺りから色々とコントロールが効かなくなる。名士の張昭を幽閉したり、呂範を袁術の密偵と思い込み捕縛してみたり、終いには袁術より先に天子を自称した闕宣を支持して軍を動かしてみたりと挙動不審な行動を続ける。
H自称天子様と一緒に泰山まで落としたが気が変わり殺害。自称天子様の軍を吸収した。同時期に曹嵩が領内(泰山説も有る)で死ぬ。エン州牧の曹操は領地の泰山を掠め取られ、更には避難していた実父を殺害されて怒り心頭。これにより徐州侵攻を開始。次々と虐殺を行う。
曹瞞伝曰く『男女数万人を泗水に投げ込み川を塞き止めた。鶏や犬までもが絶えて村を通る人すら消えた』と。なお曹操軍は食糧不足で撤退する。この時、公孫サンの送った青州刺史の田楷が劉備を伴って徐州に入る。陶謙は劉備を豫州刺史に推挙し、子飼いの丹陽兵4000と小沛を与える。
I曹操が再侵攻するもエン州で呂布が蜂起したため曹操は再度撤退。陶謙は命拾いをする。
J撤退中の曹操軍は通りすがりに瑯邪など諸県を蹂躙。ここでも容赦無い虐殺を行う。これにより多くの民が江東に逃れる。かの諸葛謹はその一例である。
K将星大地に堕つ。二人の子が不出来のため、後事を劉備に託す。

結局陶謙は何がしたかったのかさっぱり分からん(笑)


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名前:月友(Android/924-44春猫)
11/29 03:03
 
徐州侵攻に関して曹瞞伝での泗水で云々の件は曹操による虐殺もあるが、飢餓に因る所が大かなと思われる。

【理由】
@同時期の青州黄巾(青州兵)が曹操に降伏した理由は『飯を食わせろ。養え』である。
A鶏や犬すらも消えた理由は胃袋行きを示唆
B蝗(イナゴ)大発生で更に深刻
C人が喰い合う惨状の記録あり
D曹操軍食糧不足で徐州から撤退
E曹操と呂布との戦いでも両軍食糧不足で停戦状態になる

↑こうみるとね、慢性的な食糧不足がわかる。だから曹操の虐殺だけではないと思うよ。泗水の川を塞き止めたのは。
飢餓で亡くなった者が多く含まれてるはず。この問題が解消されるのは屯田をしてからになるから、強ち間違ってはなさそうよ。


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名前:月友(Android/924-44春猫)
11/29 03:25
 
【袁忠を語る@】
袁忠の字は正甫。父は袁賀。かの袁紹や袁術は『はとこ』になります。
汝南袁氏では直系の系譜ではあるが袁賀が彭城相のまま卒した。そのため袁氏の栄華は袁湯の系譜が引き継いだ。(年代的に袁湯系の袁隗が台頭)

袁忠の兄・袁コウは袁氏一族の驕奢な家風を嫌い隠遁した。(仙人でも目指したような風変わりな人生を送る)
残る兄弟達もそれに倣う感じで富貴な生き方を忌避したため、漢への出仕を拒否し続けた。(郡官吏止まり)
こうして直系の袁賀の家系は中央から離れて行ったが、袁忠ただ1人が漢に出仕した。

袁忠は清流の名士として登場し沛国相を経てから棄官。徐州→揚州→交州と逃亡してる中で漢より衛尉任官の話が来てそれを受諾。交州から都に向かう途中で卒した。
子に袁祕がいたが黄巾との戦いで既に戦死していた。

袁忠の記事はとても短いものであるが、情報を集めて見ると意外と面白い。なお三国志関連の人物辞典に希に袁沛なる人物が登場するがこれは袁忠の事を指す。

続く

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名前:月友(Android/924-44春猫)
11/29 03:29
 
【袁忠を語るA】
@で大体の流れを書いたんでAでは少し掘り下げてみます。

袁コウ(字は夏甫)
袁忠の兄の袁コウは郡吏をしていたが党錮の禁で棄官。寝所を深林に移し土蔵で経を詠む生活を送っていた。黄巾の乱が始まってもこの生活を継続しており、黄巾等もこの薄気味悪い土蔵には近づかないようにしていた。
土蔵生活18年57歳で卒した。二人の弟(袁忠と末弟・袁弘。字は邵甫)は袁コウに次ぐ頑迷さを持った人だったと伝わる。

袁忠
初登場はおそらく党錮の禁。逮捕された同郷の名士范滂(八顧の一人)と供に拷問を受ける所からである。内容は范滂が進んで拷問を受けると袁忠も名乗り出て拷問を受けた。
どうやら袁忠は范党(汝南の党議で范滂に関わった集団)の党人だった様である。党錮で逮捕されてる時点で立派な清流派の名士であった事が窺える。
禁が解除されたあと初平年間に沛国相となった。

ここで面白いネタがある。どうして袁忠は曹操に狙われているのか?
@曹操が洛陽を逃れた時、董卓は出身地での挙兵を予期して豫州牧の黄エンに手配書を出した。しかし曹操は沛に戻らず陳留で挙兵した。
A曹操の挙兵に呼応する形に沛で立ち上がったのは曹邵。曹邵は直ぐさま黄エンに捕まり処断された。

↑これには矛盾がある。この豫州牧の黄エンは曹操脱出の時には洛陽で三公の1つである司徒になってるんです。だから黄エンが曹邵を処断する事は不可能。しかしここで見るべき所は曹邵の没年。曹邵は190年(初平元年)に処断された事が分かります。この時の沛国相が袁忠なんです。
もう分かると思いますが曹邵と曹慮(曹邵の弟)を処断したのは黄エンではなく袁忠だったのです。因みに曹邵の子はあの曹真。
190年は反董卓連合(諸侯連合)が結成され、曹操等は洛陽目指して進発。時期的に盟主袁紹の親族である袁忠を狙う訳にはいかなかった様である。更には清流派の名士である事も延命出来た要因かもしれない。
次に袁忠の名が出るのは初平三年の朱儁を盟主にした第二次諸侯連合賛同者としてである。(陶謙の記事を読むべし)

続く

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名前:月友(Android/924-44春猫)
11/29 03:32
 
【袁忠を語るB】
曹邵処断の時期に合わせて曹嵩(曹操の父)は沛を離れた。その後は泰山へと向かうのだが…
曹休(曹操の族子)も祖父曹鼎(呉郡太守)の任地である呉に避難している。要するに袁忠の締めつけで沛にはもう曹氏が住めない状態だった様に思われる。

続く

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名前:月友(Android/924-44春猫)
11/29 03:35
 
【袁忠を語るC】
郡国制と爵位の話。郡の太守に対して国は相を置きます。これは封国された王に内政権限を与えないための処置で中央に任免権がありました。
袁忠が沛相になった時の沛王は劉ソウ。かの劉表の次男と同姓同名だが沛王は光武の8代孫と注があるため、沛王6代目の孝王・劉ソウと言うことになる。
魏の時代を向かえると爵位の見直しがされ、漢の諸侯王等は尽く崇徳侯となります。故に漢の諸侯王の最後の当主の諡号は崇徳侯となるのです。
なお漢の沛王家は8代目の崇徳侯・劉契で幕を閉じる。



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名前:月友(Android/924-44春猫)
11/29 03:40
 
【袁忠を語るD】
第二次諸侯連合とは董卓亡き後の次の太師に朱儁を推し、その後援者たる陶謙とその他諸侯が軍事面で支える連合を指す。
これは上奏の段階で朱儁が固辞し、更に中央からの説得に陶謙が応じたため連合結成は実現しなかった。この連合の賛同者に沛国相袁忠の名が確認できる。

この説得に当たったのは馬日テイ。李カクの思惑は最大の軍閥と化している袁紹包囲網の結成にありました。李カクは馬日テイを介して陶謙を宥めて袁術と公孫サン、それと黒山賊と組むように仕向けました。
この時、袁紹に与するのは曹操のみでした。

この頃の袁忠について後漢書の袁安伝の袁忠の項にはこうある。『天下の大乱が及ぶと袁忠は官職を捨て会稽上虞へ向かった』と。
おそらく陶謙が袁術側に与した事で曹操は袁紹に気遣いの必要が無くなったとみてとれる。
袁忠としては曹操の私怨を恐れての逃亡と言うことになります。(私怨とは曹邵の死。後に父曹嵩の死の間接的な関与。そもそも曹嵩避難の最初の原因は袁忠にあると思われる)

【この時期の出来事】
この時期、包囲軍側にいた黒山賊は袁紹を攻撃してました。袁紹は黒山賊迎撃に呂布を使いました。続いて陶謙が泰山に進出し曹操の逆鱗に触れてしまいました。
なお泰山ルートからの脱出をしていた曹嵩が陶謙麾下の者に殺害されたのはこの時である。

続く


 

 
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