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名前:月友(Android/924-44春猫)
2017/11/29 00:57
 
氣が練れてる時に適度に歴史を語るスレです。
ちょくちょく独自研究を挟んだりしてますので鵜呑みにしないようにしてください。


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名前:月友(勤務中&休憩中)(Android/901-33北狼)
01/03 17:53
 
補足
太史慈伝の孔融救出ネタですが、先主伝や崔エン伝の付録扱いの孔融伝(伝では無いが便宜上こう呼ぶ)では全く触れてません。このネタは後漢書の孔融伝にサラッと流す程度に書いてあるだけに過ぎない。
後漢書そのものが北宋時代の書なので後出し感が半端ない。

【孔融と劉備の繋がりを少し触れてみる】
孔融を青州刺史に薦めたのが劉備。そして陶謙亡き後の徐州を引き継ぐように説得したのが孔融。この二人は相互扶助の関係にあったのはあまり知られていない。

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名前:月友(勤務中&休憩中)(Android/901-33北狼)
01/04 09:47
 
【太史慈伝をちょっと考える】
太史慈を語るの途中ですが、太史慈伝を軽く考察してみたい。
太史慈を語るAにでも書いたけど、太史慈伝自体がグダグダな纏め方なんですよ。大体普通は出身地や身体的特徴は最初に書いてあるもんなんですが、太史慈伝ではかなり後半に唐突に書かれます。考えようによると陳寿がちゃんと書いたのはこの身体的特徴からかもしれません。
となると身体的特徴より前に書かれてるエピソードは注釈者が何処かで拾ってきて途中で捩じ込んだ可能性がある。おそらく孔融救出ネタは後漢書に書かれてたから、三国志(正史)に捩じ込んでみた結果だったのではなかろうか?
ちなみに趙雲なんかも趙雲の子孫が誇張された家伝(趙雲別伝)を残してたので注釈なんかに採用されてます。太史慈伝もこれに近い感じだったのかもしれない。

次回は太史慈を語るを再開します。



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名前:月友(Android/933-99月狼)
01/05 18:59
 
【太史慈を語るJ】
太史慈は一騎卒(兵卒)と組んで孫策軍の進軍速度を測るべく偵察に出たが、此処で孫策自身と遭遇することになる。
孫策は騎兵13騎で行動しており、その面々は韓当・宋謙・黄蓋といった将達であった。
太史慈は前に出て孫策に挑んだ。孫策は太史慈の馬を刺し殺すと太史慈は手戟を使って孫策の兜を奪う。
この戦闘中に孫氏、劉氏の兵が集まりだし、戦闘は終了した。

↑この戦闘終了後に太史慈は何をしたのか全く書かれてません。そして唐突に話が進む。

この次は劉ヨウで語るで書いた通り劉ヨウは預章に移るのだが、太史慈伝には預章に移る経緯は全く触れていない。

劉ヨウが預章行きとなった時に太史慈はそれに同伴しないで別行動を取る事になるのだが、その話は次回に持ち越します。

つづく


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名前:月友(Android/933-99月狼)
01/06 07:27
 
【太史慈を語るK】
劉ヨウが預章に向かうと太史慈も一緒に行こうとしたが、ブ湖(長江右岸の河港都市)で見つかり山中を彷徨う。そして丹陽太守を称した。

↑マジで太史慈伝は話がぶっ飛び過ぎ!原文がいきなり急展開で書いてるこちらも困惑ですわ(笑)
ブ湖まで追撃されたまでは分かったが山中彷徨ってからいきなり太守を自称するとは太史慈に何があったのだろうか?
とりあえず追っ手が劉ヨウに向いたから隙見て反乱と言うことか?義に厚いとかそんなキャラは何処にいった?またしても演義に騙されたの?(笑)

孫策は宣城以東を平定して劉ヨウに備えていた。丹陽太守(自称)の太史慈は孫策の支配を受けていない宣城以西の六県を本拠とした。そしてケイ県まで進むと屯所を設けた。これにより山越が太史慈に服属した。


注:六県は六つの県を指してるわけでない。現在の安徽省の六安の地を指している。六安は秦の時代に六県として配置され、宋の時代に六安県となった。因みに鯨布こと英布の出身地でもあります。

そうこうしてる間に孫策は太史慈に時間を与えずに攻め入るのであった。


つづく

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名前:月友(Android/927-3天狼)
01/08 17:48
 
【ちょっと補足】
ちょっと前になりますが、太史慈大将ネタで許子将に嘲笑されると書きました。
なんで嘲笑されるのか?について補足。
太史慈の郡吏時代の奏章破り事件で逐電したのが尾を引いてます。要するに官吏の責任を放棄して逃げる様な人物を大将に据えるのかと。まぁこれがあったから郡吏時代を渋々書いたんですよ。

【Kを少し纏める】
太史慈は偵察に出るわけだが、偵察の報告記述も無いまま劉ヨウは預章に入り、太史慈は六に入ります。
そして劉ヨウと別れた途端に太守を自称します。丹陽太守は呉景(孫策の母方の叔父)なので孫策が太史慈の太守自称を許すとは思えない。おそらく孫策が太史慈を攻める理由はコレだと言える。(山越兵が欲しかった説もある)
劉ヨウを預章に追いやった報告を孫策は呉景に託します。袁術は報告を受けると呉景を丹陽太守から広陵太守とした。
因みに広陵はサク融が略奪をしてから空白地みたいな感じである。サク融自身は劉ヨウと行動しているので預章に向かっている。

↑これ表向きは劉備対策の異動なんですが、実のところは孫策と呉景の切り離しだと思われる。

太史慈を語るが思いの外長い(笑)
もう少し続きますので辛抱してください(笑)



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名前:月友(Android/927-3天狼)
01/09 16:41
 
【太史慈を語るL】
策躬自攻討、遂見囚執。

↑『孫策が討伐に来た。遂に太史慈は虜囚となる。』またまた展開が早すぎる。戦いの描写も無いから事実上の降伏なんだろう。

孫策は太史慈の縄目を解いた。
孫策『神亭での事を覚えるか?もし卿が私を捕らえてたらどうしたか?』
太史慈『測りかねます』
孫策『では今日より苦楽を卿と共にしよう』

注:神亭とは丹陽にある地。孫策と太史慈が遭遇したのは神亭だったとこの時にわかる。ある意味『伝説の地』みたいな感じになってるんで後付け感がある。


縄目を解いてから説得する辺りが孫策の度量が滲み出てます。しかも降将に卿と言ってくれる人は中々いませんよ。
ただ此だけの会話で太史慈が配下に加わったのは何とも…。やはり後付け感が増すばかりだ。

呉に戻ると太史慈は折衝中郎将となる。同じ頃、劉ヨウが預章で没した。


つづく

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名前:月友(Android/924-43天狼)
01/11 23:12
 
【太史慈を語るM】
劉ヨウは預章で亡くなった。これにより劉ヨウに従っていた数万余の兵が行き場を無くしていた。(帰還先を見失う)
孫策は劉ヨウ軍の残兵を安撫するよう太史慈に命令を下す。(残兵の暴発防止と引き入れの任務)

これを聞いた孫策の左右の者がこれを機に太史慈は北に去るのではないかと懸念した。
孫策は言った。『子義が私を捨てて誰と与するのだ』
そして太史慈に言う。『何日後に戻れそうだ?』『六十日以内には』と。
そして太史慈は兵を連れて期日通りに戻ってきた。


注:この残兵の回収の話についてですが、太史慈伝では孫策の命令で動きます。しかし注釈にある呉歴や江表伝では太史慈自身が回収を名乗り出る。
その呉歴に関して裴松之は言う。『誤謬(ごびゅう)』であると。誤謬とは間違いと同義語で本伝と呉歴では回収日数に大きな開きがある。本伝では60日以内と定めて出発しましたが、呉歴ではその日の夕方に帰還します。普通に考えても1日で数万の兵が戻るなんて有り得ませんよね。ちなみに江表伝は話が大きくして記す感じなんで話し半分で見るのが正しいらしい(笑)


ここで話が飛ぶ。劉表の従子である劉磐は驍勇で孫策を悩ませていた。孫策は建昌郡に建昌都尉として太史慈を派遣した。太史慈は郡を良く纏めて劉磐を追い払った。そして劉磐は建昌攻略を断念した。


この劉磐ネタの次にやっと太史慈の身体的特徴の記事が登場するんです。前振りが長いわ。
そしてここからが太史慈伝の本番の始まりなんです!(笑)


つづく

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名前:月友(Android/924-42春狼)
01/12 02:33
 
【太史慈を語るN】
曹公(曹操)が太史慈の威名を知ると書簡を送った。書簡には何も書かれておらず、ただ当帰が添えらていた。

注:当帰とは漢方薬のトウキ(カラトウキ)の事である。曹操は今すぐに故郷に帰ってきなさい。という意味で当帰草を添えたと言われている。


孫権が統事すると劉磐の退けた事から南方を委ねられた。
四十一歳、建安十一年に卒した。子の太史享は越騎校尉まで官を進めた。

裴松之の注(呉書)に太史慈の最期の言葉が残っている。
『丈夫生世、當帶七尺之劍、以升天子之階。今所志未從、奈何而死乎』

↑『大丈夫たるもの、七尺の剣を帯びて天子の階に昇るべきものだ。未だその志しを果たせずに死ぬ事になろうとは』


太史慈伝はこれで終わりです。本番が一瞬にして終わってしまった…(笑)
次回は太史慈について簡単に纏めてつつ私の感想を書いてみたいと思います。


つづく

レス230 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-7子狼)
01/12 04:25
 
【太史慈を語るO】
太史慈伝を読むと郡吏→孔融救出→揚州争乱→呉の順番に書かれている。まぁ時系列的に書かれてるのだから見易いのは判るが話が飛び飛びな所が目立つんですよね。
これは注釈者がネタを広い集めた結果なんだろうと私は思ってます。

【太史慈の動きを纏める】
@郡吏時代に州の奏章を破って郡を救う。本人は遼東へ逃げる
A母に乞われて知己でも無い孔融を助ける。成り行きで劉備に援軍要請の使者となる。何人か黄巾を殺る
B劉ヨウに頼まれて偵察したら孫策と戦闘となる
C敗走した劉ヨウとはぐれた途端に太守を自称する。山越兵を味方にした直後に孫策に攻められ捕縛される(降伏か?)
D劉ヨウ軍残兵を回収する
E劉磐の侵攻を防ぎ、侵攻そのものを断念させる。
F曹操から手紙が来る。そして孫権が主になると劉磐を防いだ事から南方に異動させられ、41歳で亡くなる。

【私の感想】
郡吏時代は許子将の言を生かす為の伏線に過ぎない。それと逐電するにしても黄巾がウヨウヨしてる時代に母を置き去りして遼東に行くのはどうかと思った。
とりあえず時期的に張純の乱と重なるので遼東で張純軍として参加していた可能性があったのかもしれない。こんな話であれば武術を身に付けたのもそこそこ納得がいくんだが。

太史慈は太守を自称して孫策に捕まり、劉磐を追い返しただけの人物である。正直大した人物では無い。(纏めると孫策と劉磐と黄巾としか戦ってないんだよね)
そして面白い事に太史慈には同僚が一人も居ないのである。太史慈伝で会話した名のある人物は孔融、劉備、孫策、劉ヨウだけである。
これはおそらく太史慈は独立勢力扱いで曹操配下の張燕と変わらない立ち位置だったのではないのか?
ちなみに呉志では劉ヨウ・太史慈・士キ(交阯の太守)と並んでの伝です。明らかに独立勢力扱いと見なされてますな。
そして周瑜と同じく孫策時代に武力を保有した人物は孫権より遠ざけられてしまうようだ。太史慈の場合は南方としか書かれてないため山越が蔓延る地に飛ばされた様だ。子の太史享が越騎校尉になってるところを見ると強ち間違いではなさそうだ。
周瑜は後に赤壁の戦いで信用回復の機会を得るが太史慈は赤壁の戦い前に亡くなります。
これではネタを追加したくなるのも無理ないな…と思った次第。最後に武力75が妥当!と叫んでおきますね(笑)

まぁ長々と語りましたがこれで太史慈を語るを終わりにします。毎度駄文で申し訳ない(笑)


レス231 (最新) - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/902-02銀狼)
01/17 14:49
 
しまった!太史慈ネタが唐突に出て来たわ。これは補足が必要だわ

 

 
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