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名前:月友(Android/924-44春猫)
2017/11/29 00:57
 
氣が練れてる時に適度に歴史を語るスレです。
ちょくちょく独自研究を挟んだりしてますので鵜呑みにしないようにしてください。


レス258 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/933-98銀豹)
04/23 03:52
 
レス237関連
【曹洪ネタ再び(笑)】
曹洪が亡くなった時の事が魏志の曹洪伝に載ってるのでちょっと書いてみる

『太和六年薨、諡曰恭侯。子馥、嗣侯。初、太祖分洪戸封子震列侯。洪族父瑜、脩慎篤敬、官至衞將軍、封列侯。』

文末に注目。曹洪の族父の曹瑜は衛将軍に至ったとある。曹瑜は曹嵩の父なので、曹洪と曹嵩は従兄弟である事が確認できる。こうなるとやっぱり曹操は族子なるんだよね。しかし曹洪伝の最初で『曹洪字子廉、太祖從弟也。』と曹操の従弟であると高らかに書かれている。
陳寿さん、矛盾が凄いよ


それにしても曹洪が亡くなって子が後継いだと書いた直後に曹瑜を割り込ませるとは。

曹瑜は世代的に上なのでこの衛将軍とは『漢の衛将軍』だったと思いたいが、記事の流れを汲むと曹洪亡き後に『魏の衛将軍』になったかもしれない。もし後者なら曹瑜は何歳なんだよ!曹洪は明帝曹叡の時代に亡くなってるんだぞ(笑)

【血統を見てみると】
曹鼎(尚書令・曹騰の兄)
曹騰→曹嵩(曹瑜の子・養子)
曹瑜→曹嵩→曹操→曹丕→曹叡
曹勳→曹洪→曹馥・曹震

↑やはり世代のズレがあるよな…


レス259 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-42春豹)
04/25 23:06
 
【呂布伝をちょっとだけを読む】
『呂布字奉先、五原郡九原人也。以驍武給并州。』

↑始めから驍武を以て并州に給侍したとかスゲーよ。

『布便弓馬、膂力過人、號為飛將。』

呂布は弓馬に馴れ、その膂力は人を超える。その為、飛将と号した。

↑マジこえーよ。この時点で既に人外かよ(笑)


レス260 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/927-5天豹)
04/29 06:08
 
【数多い夏侯淵の子のうち無名な子を見てみる @】

夏侯衡(かこうこう)。字は不明。生没年も不明。夏侯淵の長子である。中国の百度百科によれば字は伯権もしくは孟権だろうと書かれている。

【せっかくだから字(あざな)も少し語る】
伯と孟は長男を意味します。伯か孟を使用した場合は併用が出来ないルールです。
では伯と孟の違いについてですが、これは正室の長男が伯。側室の長男が孟となります。そして次男からは正室・側室に関係なく仲を使います。
なので馬超(孟起)や曹操(孟徳)は側室の子と言うことなります。


本題を続けます。

長子衡、尚太祖弟海陽哀侯女、恩寵特隆。衡襲爵、轉封安寧亭侯。

夏侯衡は曹操の弟の海陽哀侯の娘を妻にしている。その為、格別な寵を受けていた。淵が亡くなると安寧亭侯となった。

夏侯衡の記事は夏侯淵伝だけしか書かれていない。そして夏侯淵伝の終わりにこうある。

衡薨、子績嗣、為虎賁中郎將。績薨、子褒嗣。

夏侯衡が亡くなると子の夏侯績が継いで虎賁中郎将となった。夏侯績が亡くなると子の夏侯褒が継いだ。


夏侯衡は長子の割には知名度があまりにも低い。
軍歴が全く無いのと郡太守はおろか政治にも一切関わってないんだよね。他の伝にも一切出て来ない。ある意味、夏侯楙より使えない人物だったのかもと思えてしまう。

【気になるところ】
曹操の弟の海陽哀侯は誰の事なのか不明なのです。三国志では弟は曹徳とされており、曹嵩殺害の際に一緒に死んだとされています。一方、後漢書では曹嵩は少子の曹疾を連れて避難したとあります。この曹徳と曹疾は同一人物かどうかも分かりません。(まぁ娘がいるぐらいなので成人しているのは確かである)

なお少子とは末子の事。未成年とかの意味で見てはならない。序でに言うと少子・曹疾の字には『季』が付いたと思われる。



レス261 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/927-5天豹)
04/29 19:12
 
【数多い夏侯淵の子のうち無名な子を見てみる A】

夏侯称。字は叔権。生没年不明。夏侯淵の第三子である。
子供の頃から戦争ごっこをしており、軍律を破った子に鞭を振るった。
夏侯淵は夏侯称に史記項羽本紀を読まそうとすると『自分の事は自分でやります。どうして他人から学べましょうか』と言った。

夏侯称が16歳の時に夏侯淵と一緒に田猟(狩猟)をした。走る虎を見つけると馬で追いたて、一剪にして射倒した。曹操は夏侯称の武威を聞き『我は汝を得た』と喜んだ。
曹丕とは布衣之交(布衣交わり)結んだ。
夏侯称が宴に出るとその気勢で一同を圧倒した。弁士でさえも言い負かす事が出来なかった。そのため名声の高い者はこぞって夏侯称と交遊した。
夏侯称は18歳で亡くなった。

【少し疑問点を整理してみよう】
字は男子は20歳からで女子は15歳から。官に就く前に亡くなってるから第三子であっても字は付かないと思われる。
同じく早世した曹沖には字があるが、こちらは死後にケ哀王となったから字がある。もしかしたら夏侯淵死後に子供らは関内侯になったから、成人扱いにされたのかもしれない。

【感想】
夏侯覇の直ぐ下の弟になるんだが、18歳で逝くのは早すぎ。戦う以前に亡くなってるからこそ三国志では無名なんだろうな。
世代的には曹丕や曹彰に近いようだ。そして曹彰とキャラ被ってる辺りが微笑ましい。
問題は曹丕と布衣之交をしたところだ。これは身分に関係なく交際すると言う意味だから、曹丕と夏侯称は身分の隔たりがあった事を指す。やっぱり未成年だから身分に差があったのかな?それとも母の身分がかなり低かったのか?疑問が残る一文である。

夏侯称の記事は『魏書』のみに書かれているだよね。これ著者が夏侯湛なんです。
夏侯湛の父は夏侯荘で、その夏侯荘の父が夏侯威。この夏侯威の上の兄が夏侯称。夏侯湛からしたら夏侯称は大伯父になります。

ここまで行くと夏侯湛による身内アゲの身贔屓とも取れる記事にしか見えない。

趙雲の時と同様で一家に伝わる『家伝』的要素が強く、注釈で用いる史書の割にはその眉唾臭い点が拭えない。
現に名声ある人と交遊した割には他の伝で夏侯称と交わりを書いたものは一つも無いのである。

酷評するつもりは無かったがついつい力が入ってしまった(笑)




レス262 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/927-5天豹)
04/30 08:57
 
【数多い夏侯淵の子のうち無名な子を見てみる B】

夏侯栄。字は幼権。生没年は建安12年〜建安24年(207〜219)。
夏侯淵の第五子である。
夏侯淵の子で死亡事の年齢がわかる唯一の人物である。
夏侯栄は7歳で文を綴り、書を一日で千言誦し、経書に目を通すとたちまち憶えた。
曹丕は夏侯栄の評判を聞き招聘した。賓客百余名を招いて夏侯栄に爵里刺を差し出した。夏侯栄は一瞥した後に談に花を咲かせたが、百余名の顔と名前を一つの間違い無く憶えていた。
これを見た曹丕は夏侯栄の才を奇とした。

夏侯淵が定軍山にて敗れると夏侯栄の周りの者が抱えて逃げようにした。
夏侯栄は言った。『君、親が難にあっているのにどうして死から逃げられようか』
夏侯栄は剣を取って戦い、そのまま陣没した。享年13歳。

注:爵里刺とは云わば名刺。郷邑や氏族などが書かれている。

注2:『君、親が難あって』の件は君主や親を指している。この場合は曹操と夏侯淵の事である。

【感想】
どうやら夏侯淵の家事情が見えてきたな。兄弟順で奇数の子は無名になる。
と言うか、ここまで長男、三男、五男に関しては官職の記述が無い。呪いでも掛けられてるのか?

因みに七男の夏侯和でやっと長い奇数生まれの呪いが解除される(笑)

【謎がある】
曹丕の招聘の件だが、定軍山の戦いは曹操が存命してるので曹丕の太子時代の事だと思われる。が、曹丕が太子になったのは217年であり、その前々年から留守居役になってるから都から出れない状態である。しかも217年以前となると曹植と後継者争いの只中である。招聘できるゆとりは無かったんじゃないの?
一方、夏侯淵は216年には涼州方面に出ており、217年以降は漢中方面で居座る状態になる。この状況で十代前半の少年である夏侯栄の招聘は可能だったのだろうか?
そもそも夏侯栄の話に曹操が全く出て来ないのが引っ掛かる。出ても『君、親』の時だけである。人材収集家の曹操が夏侯栄を才を見過ごすとはとても思えない。

やっぱり夏侯栄の記事も夏侯称同様に眉唾臭いと感じてしまう。


レス263 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-29子豹)
05/07 10:45
 
【まだ続く夏侯淵の血筋のネタ@】
『當時エン州、豫州大乱、夏侯淵因為飢困為了養活已去世的弟弟的女児ヒョウ棄了自己年幼的児子。』(現代文。しかもあちらの国から転載した。カナは文字化け対策)

↑魏略ね。エン州と豫州の大乱で食糧が困窮になると養っていた亡弟の娘を生かす為に自分の幼子を捨てた。

レス260の字の問題が見えてきた】
なるほどね。おそらくこの捨てた子が伯権だわ。夏侯淵は姪を生かす為にこの嫡子『伯権』が捨てて亡くした。そして妾の子の夏侯衡が立てられたんだろう。この流れからすると夏侯衡の字は孟権になると思われる。

【夏侯氏(張飛の嫁)に関して軽く考察】
魏略ネタはまだある。それは夏侯淵が養ってる姪の存在。この姪は夏侯覇からしたら従妹。この従妹は薪の採取中に張飛に捕まった娘と同一人物なのではないのかな?

建安五年、夏侯霸の従妹は十三、四歳で本籍に在り…。

この件も魏略である。建安五年は西暦200年。夏侯氏の生まれは早くても中平三年と言うことがわかる。黄巾の乱は光和七年で勃発して年内で鎮圧。その二年後ないし三年後に生まれた計算になる。
こうなると夏侯淵の弟は黄巾鎮圧時にはまだ存命したと事になる。

【エン州、豫州の大乱とは?】
恐らくは初平三年〜四年の事で青州黄巾によるエン州入寇〜袁術の陳留攻撃に失敗しての寿春入りの時期だろう。
この頃は食料事情がかなり宜しくないので夏侯淵の姪である夏侯氏を養った記述は間違ってないように思える。
この時の夏侯氏の年齢は推定7歳ないし8歳。

となると夏侯氏は夏侯覇の従妹の表現だから夏侯覇は青州黄巾の頃には8歳以上だった事になる。更に捨てた嫡子伯権はそれより年上となる。は?10歳前後は幼子の表現でも有りなのかな?
ここに来て壁にぶつかってしまった(笑)

つづく

レス264 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-29子豹)
05/07 18:41
 
【まだ続く夏侯淵の血筋のネタA】
建安五年、夏侯霸の従妹は年は十三、四歳で本籍に在り…。
↑この時点で夏侯氏は張飛に捕まったと云う話。
夏侯淵の本籍は豫州沛国ショウ県だから、恐らくは沛に居た。
建安五年は呂布の死から二年後でこの頃の劉備等は何をしていたのか?

武帝紀曰く
『五年春正月、董承等謀泄、皆伏誅。』
『郭嘉亦勸公、遂東撃備、破之、生禽其將夏侯博。備走奔紹、獲其妻子。備將關羽屯下ヒ、復進攻之、羽降。』

董承の謀議が漏れて董承とその一族は誅殺。郭嘉の勧めもあって独立した徐州を攻めて夏侯博を捕らえる。劉備は袁紹を頼って逃亡。劉備の妻子は捕まり、関羽も降伏した。

捕らえた将の夏侯博は恐らくは夏侯淵の一族。劉備独立前から沛ないし小沛に派遣されていたと思われる。夏侯氏が本籍地に居た事実を考えると一族の護り手が夏侯博だったのではと。
そして曹操が襲来して夏侯博を捕らえた。この時点で夏侯氏は既に張飛に捕まっていたのではなかろうか。
その張飛だが、劉備等と離散した説がある。これは演義で採用されていてストーリーとして山賊に落ちるネタとなる。一方で劉備と同道して袁紹の下に走った説もある。曹操はかつて呂布を破った際に張飛を中郎将に任じている。この役職で袁紹軍に投じたのなら伝に残る筈である。となると離散説が有力な気がしてならない。

【私の妄想的展開で夏侯氏を箇条書きで纏めてみる(笑)】
・董承が誅殺された頃、沛近郊で薪拾いをしていた夏侯氏が張飛に捕まる
・夏侯博は夏侯淵の姪である夏侯氏が戻らないので責任を感じる。(拉致や誘拐の可能性が高く気が重い)
・曹操の東征が始まり夏侯博は劉備側の将となる。そして曹操に捕まりフェードアウト
・劉備軍解体で張飛は夏侯氏を連れて下野
・夏侯淵が亡くなった時には夏侯氏は33歳ないし34歳になっている
・この張飛と夏侯氏の娘が劉禅のかみさんとなる
・夏侯覇亡命で従妹の娘と出会う。この娘からしたら夏侯覇の続柄は族父である


まぁこんなところだろうね。
どうでしたか?

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名前:月友(Android/924-09銀鹿)
05/28 18:26
 
【楠木正勝について】
楠木正勝を調べてみると太公望呂尚のごとき戦術で山名氏清が舌を巻いたとある。
しかしこの話が書かれてる後太平記は劣勢で守るべきところを奇策を用いたが為に負けた。愚かだ。と評している。

楠木正勝は太公望みたいとか言いつつも愚かと評すのはどうなんだろうか。やはり負け戦だからかな?


レス266 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-64黒鹿)
05/31 11:50
 
【唐突に永禄10年の出来事を書いてみる】

・今川氏真、甲斐に対して塩の供給を断つ
・武田義信が東光寺で亡くなる
・織田信長、稲葉山の戦いで勝ち美濃を制圧。斉藤氏滅亡
・竹中半兵衛、斉藤氏から離れて浅井長政がいる北近江に避難する
・織田信長、天下布武を使用する。楽市令を発布
・武田信玄の娘・松姫と織田信忠が婚約
・武田信玄、徳川家康と同盟
・毛利氏が北九州に侵攻
・大友氏、毛利氏に呼応して離反した秋月種実の討伐開始
・松永久秀により東大寺大仏殿が消失
・武田信勝が生まれる
・伊達政宗が生まれる
・立花宗茂が生まれる
・真田幸村が生まれる
・茶々(淀殿)が生まれる
・毛利秀包(小早川秀包)が生まれる


↑年内の時系列はバラバラだが中々凄い時代だなと思った



レス267 (最新) - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-75白豹)
06/16 05:12
 
【ちょっとした話】
田村宗顕は伊達政宗の正室愛姫の従弟にあたる。愛姫の父清顕に男子が無かったためその養子となり跡を継いだ。
この宗顕に次男が生まれると仙台で養育された。次男は元服の折りに陽徳院(愛姫)より名を授けられた。

田村男猿(おさる)

↑ひ、ひどい(笑)

 

 
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