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名前:月友【たのもー!】(P07B/387黒虎)
2010/12/19 09:17
 
世界史、日本史、戦史などを適当(好き勝手)に語るスレです。


既にある歴史系スレの話題はそちらでヨロです。

【歴史系スレ一覧】
●春秋〜秦漢〜三国志を語るスレ(その他)
●平安末期〜戦国時代を語るスレ(その他)
●幕末〜明治維新の謎 蘊蓄(その他)
●競馬の歴史(競馬一般)


レス337 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/933-01北狼)
02/04 19:03
 
【太史慈を語るJ】
太史慈は一騎卒(兵卒)と組んで孫策軍の進軍速度を測るべく偵察に出たが、此処で孫策自身と遭遇することになる。
孫策は騎兵13騎で行動しており、その面々は韓当・宋謙・黄蓋といった将達であった。
太史慈は前に出て孫策に挑んだ。孫策は太史慈の馬を刺し殺すと太史慈は手戟を使って孫策の兜を奪う。
この戦闘中に孫氏、劉氏の兵が集まりだし、戦闘は終了した。

↑この戦闘終了後に太史慈は何をしたのか全く書かれてません。せめて劉ヨウに遭遇した報告ぐらいしろよ!
そして唐突に話が進む。

この次は劉ヨウで語るで書いた通り、劉ヨウは負け続けて預章に移るのだが、太史慈伝には預章に移る経緯は全く触れていない。

劉ヨウが預章行きとなった時に太史慈はそれに同伴しないで別行動を取る事になるのだが、その話は次回に持ち越します。

つづく


レス338 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/933-01北狼)
02/05 06:11
 
【太史慈を語るK】
劉ヨウが預章に向かうと太史慈も一緒に行こうとしたが、ブ湖(長江右岸の河港都市)で見つかり山中を彷徨う。そして丹陽太守を称した。

↑マジで太史慈伝は話がぶっ飛び過ぎ!原文がいきなり急展開で書いてるこちらも困惑ですわ(笑)
ブ湖まで追撃されたまでは分かったが山中彷徨ってからいきなり太守を自称するとは太史慈に何があったのだろうか?
とりあえず追っ手が劉ヨウに向いたから隙見て反乱と言うことか?義に厚いとかそんなキャラは何処にいった?またしても演義に騙されたの?(笑)

孫策は宣城以東を平定して劉ヨウに備えていた。丹陽太守(自称)の太史慈は孫策の支配を受けていない宣城以西の六県を本拠とした。そしてケイ県まで進むと屯所を設けた。これにより山越が太史慈に服属した。


注:六県は六つの県を指してるわけでない。現在の安徽省の六安の地を指している。六安は秦の時代に六県として配置され、宋の時代に六安県となった。因みに六は秦末漢初の将だった鯨布(英布)の出身地でもあります。

そうこうしてる間に孫策は太史慈に時間を与えずに攻め入るのであった。


つづく

レス339 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/933-01北狼)
02/05 15:01
 
【太史慈を語るL】
策躬自攻討、遂見囚執。

↑『孫策が討伐に来た。遂に太史慈は虜囚となる。』またまた展開が早すぎる。戦いの描写も無いから事実上の降伏なんだろう。

孫策は太史慈の縄目を解いた。
孫策『神亭での事を覚えるか?もし卿が私を捕らえてたらどうしたか?』
太史慈『測りかねます』
孫策『では今日より苦楽を卿と共にしよう』

注:神亭とは丹陽にある地。孫策と太史慈が遭遇したのは神亭だったとこの時にわかる。ある意味『伝説の地』みたいな感じになってるんで後付け感がある。


縄目を解いてから説得する辺りが孫策の度量が滲み出てます。しかも降将に卿と言ってくれる人は中々いませんよ。
ただ此だけの会話で太史慈が配下に加わったのは何とも…。やはり後付け感が増すばかりだ。

呉に戻ると太史慈は折衝中郎将となる。同じ頃、劉ヨウが預章で没した。


つづく

レス340 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/933-01北狼)
02/05 18:07
 
【太史慈を語るM】
劉ヨウは預章で亡くなった。これにより劉ヨウに従っていた数万余の兵が行き場を無くしていた。(帰還先を見失う)
孫策は劉ヨウ軍の残兵を安撫するよう太史慈に命令を下す。(残兵の暴発防止と引き入れの任務)

これを聞いた孫策の左右の者がこれを機に太史慈は北に去るのではないかと懸念した。孫策は言った。
『子義が私を捨てて誰と与するのだ』
そして太史慈に言う。『何日後に戻れそうだ?』『六十日以内には』と。
そして太史慈は兵を連れて期日通りに戻ってきた。


注:この残兵の回収の話についてですが、太史慈伝では孫策の命令で動きます。しかし注釈にある呉歴や江表伝では太史慈自身が回収を名乗り出る。
その呉歴に関して裴松之は言う。『誤謬(ごびゅう)』であると。誤謬とは間違いと同義語で本伝と呉歴では回収日数に大きな開きがある。本伝では60日以内と定めて出発しましたが、呉歴ではその日の夕方に帰還します。普通に考えても1日で数万の兵が戻るなんて有り得ませんよね。ちなみに江表伝は話が大きくして記す感じなんで話し半分で見るのが正しいらしい(笑)


ここで話が飛ぶ。劉表の従子である劉磐は驍勇で孫策を悩ませていた。孫策は建昌郡に建昌都尉として太史慈を派遣した。太史慈は郡を良く纏めて劉磐を追い払った。そして劉磐は建昌攻略を断念した。


この劉磐ネタの次にやっと太史慈の身体的特徴の記事が登場するんです。前振りが長いわ(笑)


つづく

レス341 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/933-01北狼)
02/06 19:26
 
【太史慈を語るN】
曹公(曹操)が太史慈の威名を知ると書簡を送った。書簡には何も書かれておらず、ただ当帰が添えらていた。

注:当帰とは漢方薬のトウキ(カラトウキ)の事である。曹操は今すぐに故郷に帰ってきなさい。という意味で当帰草を添えたと言われている。


孫権が統事すると劉磐の退けた事から南方を委ねられた。
四十一歳、建安十一年に卒した。子の太史享は越騎校尉まで官を進めた。

注:孫権が統事とありますが、既に孫策が亡くなっていることを指してます。

裴松之の注(呉書)に太史慈の最期の言葉が残っている。
『丈夫生世、當帶七尺之劍、以升天子之階。今所志未從、奈何而死乎』

↑『大丈夫たるもの、七尺の剣を帯びて天子の階に昇るべきものだ。未だその志しを果たせずに死ぬ事になろうとは』


太史慈伝はこれで終わりです。本番が一瞬にして終わってしまった…(笑)
次回は太史慈について簡単に纏めてつつ私の感想を書いてみたいと思います。


つづく

レス342 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/933-01北狼)
02/07 06:34
 
【太史慈を語るO】
太史慈伝を読むと郡吏→孔融救出→揚州争乱→呉の順番に書かれている。まぁ時系列的に書かれてるのだから見易いのは判るが話が飛び飛びな所が目立つんですよね。
これは注釈者がネタを広い集めた結果なんだろうと私は思ってます。

【太史慈の動きを纏める】
@郡吏時代に州の奏章を破って郡を救う。本人は遼東へ逃げる
A母に乞われて知己でも無い孔融を助ける。成り行きで劉備に援軍要請の使者となる。何人か黄巾を殺る
B劉ヨウに頼まれて偵察したら孫策と戦闘となる
C敗走した劉ヨウとはぐれた途端に太守を自称する。山越兵を味方にした直後に孫策に攻められ捕縛される(降伏か?)
D劉ヨウ軍残兵を回収する
E劉磐の侵攻を防ぎ、侵攻そのものを断念させる。
F曹操から手紙が来る。そして孫権が主になると劉磐を防いだ事から南方に異動させられ、41歳で亡くなる。

【私の感想】
郡吏時代は許子将の言を生かす為の伏線に過ぎない。それと逐電するにしても黄巾がウヨウヨしてる時代に母を置き去りして遼東に行くのはどうかと思った。
とりあえず時期的に張純の乱と重なるので遼東で張純軍として参加していた可能性があったのかもしれない。こんな話であれば武術を身に付けたのもそこそこ納得がいくんだが。

太史慈は太守を自称して孫策に捕まり、劉磐を追い返しただけの人物である。正直大した人物では無い。(纏めると孫策と劉磐と黄巾としか戦ってないんだよね)
そして面白い事に太史慈には同僚が一人も居ないのである。太史慈伝で会話した名のある人物は孔融、劉備、孫策、劉ヨウだけである。
これはおそらく太史慈は独立勢力扱いで曹操配下の張燕と変わらない立ち位置だったのではないのかと思われる。
ちなみに呉志では劉ヨウ・太史慈・士キ(交阯の太守)と並んでの伝です。明らかに独立勢力扱いと見なされてます。
そして周瑜と同じく孫策時代に武力を保有した人物は孫権より遠ざけられてしまうようだ。太史慈の場合は南方としか書かれてないため山越が蔓延る地に飛ばされた様だ。子の太史享が越騎校尉になってるところを見ると強ち間違いではなさそうだ。
周瑜は後に赤壁の戦いで信用回復の機会を得るが太史慈は赤壁の戦い前に亡くなります。
これではネタを追加したくなるのも無理ないな…と思った次第。最後に武力75が妥当!と叫んでおきますね(笑)

まぁ長々と語りましたがこれで太史慈を語るを終わりにします。毎度駄文で申し訳ない(笑)


レス343 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/933-01北狼)
02/07 18:32
 
【ちょっとした話I】
曹洪は曹操の従弟と言うのは常識。いや待て!何か引っかかるぞ


ちょっと考えてみよう。
曹洪の伯父は曹鼎(叔興)。曹鼎は曹騰の兄。世代的に見ると曹洪は曹騰の甥で曹嵩の従兄弟である。そして曹操は族子となる。
曹操の族子の曹休の祖父は曹鼎(景節)。この線で行くと曹操と曹洪は従兄弟となる。

しかし曹洪の伯父は尚書令とあるので曹休の祖父の曹鼎ではないようだ。ちなみに叔興の方は尚書令になってます。景節の方は郡太守止まりである。


注:曹鼎は二人存在します。どちらも同じ曹氏ではありますが、字が違う。前者は叔興。後者は景節。

おそらく曹洪は曹操の族父であるが年齢でみると曹操より年下となるため従弟としたのだろう。荀イクと荀攸のパターンを想像すれば理解出来るかもしれない。

と言うか著者の陳寿さんが叔興と景節を混同していた可能性がある。


レス344 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/933-01北狼)
02/09 08:46
 
【曹操の血族を見てみよう】
曹萌→曹鸞(伯興)→曹鼎(景節)→曹水→曹休
→曹褒(仲興)→曹熾→曹仁・曹純
→曹鼎(叔興)→○→○→曹冏(元首)
→曹騰(季興)→曹嵩(巨高)→曹操
→曹勳(幼興?)→曹洪

曹瑜→曹嵩(巨高)
→曹忠(巨堅)→曹邵(伯南)→曹真(子丹)

曹萌の甥に曹瑜がいる。曹瑜には二人の子がおり庶長子を曹嵩(巨高)と言った。嫡男の曹忠(巨堅)は曹瑜の後を継ぎ、庶長子の曹嵩は曹瑜の従兄弟である曹騰の養子に出された。
この曹忠の孫が曹真である。
ここに書いた曹瑜は曹無病の末裔とあるので、当然曹萌も曹無病の末裔となる。こうなると曹操の血族は曹参の末裔ではなかった事がわかる。

曹洪には伯父の曹鼎についての話がある。(曹洪は伯父曹叔興の縁で県長になった事がある)

実父より年長を指す『伯父』を使っているので曹洪の父は曹勳(別名で曹イン)と言うことになる。なお字で幼とか稚を使ってるのは兄弟順でかなり年齢が離れている事を指す。

曹仁・曹純の父は曹熾(元盛)。この曹熾の父は曹仲興とあるので、曹仁兄弟は曹褒の孫と言うことになる。

曹鸞(伯興)→曹鼎(景節)→曹水→曹休

曹鸞(伯興)の子に呉郡太守の曹鼎(景節)がいる。その子は預州刺史の曹水である。
曹鸞は党錮の禁の緩和を諫言した。これに対して霊帝は怒り、曹鸞を拷問にかけて殺した。享年90歳。子の曹鼎も連座して処刑され、孫の曹水は刺史を罷免。曹水は一族を連座に巻き込まないようにと考え、故郷から離れた。曹水が死ぬと子の曹休は祖父の任地であった呉に縁故を求めて母と供に落ち延びた。

こうしてみると曹休こそが直系の血筋である事が良くわかる。

曹邵に関して【袁忠を語る】でそこそこ書いたが少しだけ書いてみる。
曹操が挙兵するのは沛と思われていたため当時の預州刺史は警戒していた。曹操はこれを察してか陳留で挙兵。これに同調して曹邵が沛で挙兵しようとしたところ、沛国の相袁忠が阻止。曹邵ら兄弟は袁忠に捕まり処断された。
身寄りが無くなった曹真を曹操が引き取った。



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名前:月友(Android/933-01北狼)
02/11 06:14
 
【なおも続く曹氏ネタ】
まずは訂正。
曹無病→曹無傷。病と傷を書き間違えてる。なかなかミラクルな誤字に驚いた(笑)

曹嵩の夏侯氏の出と言う話と曹真は秦伯南の子の話は異説。
曹嵩は夏侯氏の出と言う話は『曹瞞伝』から。これは今では三国志の主流の解釈であるが、裴イン(裴松之の子)の『史記集解』によると曹嵩の妻は夏侯氏であり、この妻は夏侯惇の叔母にあたると云う。可能性として曹操の母は夏侯氏だったのかもしれない。

あと秦伯南(魏略の言うところの曹邵の本姓)は秦朗養子の話と被るため、秦朗と曹真を混同してる可能性があると指摘。
秦氏説は眉唾であり、曹嵩のように妻が秦氏であった可能性もある。

曹鸞(伯興)は曹瑜の従兄とあるので曹瑜の親は曹萌の弟の血筋である事がわかる。
平たく言えば曹操と曹真は曹萌の弟の血筋(曹瑜系)なのである。そして曹仁、曹洪等は曹萌直系の曹氏であり曹休に至っては曹萌の嫡流(本家)の血筋なのである。




レス346 (最新) - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/924-44月鹿)
02/22 04:26
 
【ちょっとした話J】
『關平娶鎮東将軍女趙氏、生子關エツ。』

光緒三年(1877年。明治10年)に発刊された『続修江陵県志』によると関平には関エツ(木+越)なる子が居たと言ってます。しかも関平は鎮東将軍の女を娶っており、それは趙氏であったと。(県志はこの関エツの子孫の話を載せてるがそこは割愛)

これ分かりやすく言うと、この関エツの祖父は関羽であり、母方の祖父は趙雲であると。(鎮東将軍経験者の趙氏は趙雲ぐらいしか見当たらない)

…信じられん。関羽の子孫は皆殺しになったはず。まぁ県志(郷土史)だから、話半分だな。


 

 
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