親記事を表示

親記事 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友【たのもー!】(P07B/387黒虎)
2010/12/19 09:17
 
世界史、日本史、戦史などを適当(好き勝手)に語るスレです。


既にある歴史系スレの話題はそちらでヨロです。

【歴史系スレ一覧】
●春秋〜秦漢〜三国志を語るスレ(その他)
●平安末期〜戦国時代を語るスレ(その他)
●幕末〜明治維新の謎 蘊蓄(その他)
●競馬の歴史(競馬一般)


レス326 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-42子狼)
12/16 19:11
 
【太史慈を語る】
さてと太史慈を語るには@郡官吏時代、A北海の孔融救出、B揚州争乱、C飼い殺し時代の4つに分けて書かないとならない。
簡単に言うと@は文官でAは在野での活躍。Bは武官でCは呉将時代と言った感じである。

正直@Aを飛ばして書きたかったが、@は後から重要な事に繋がるのでやっぱり最初から書かないとならないみたいだ。

そんなわけで劉ヨウとの繋がりを知る為にも始めてみましょうか。


つづく


レス327 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-42子狼)
12/16 19:37
 
【太史慈を語るA】
とりあえず伝に沿って話を進めますが、時折順序を変えて書きます。なんせ唐突に終盤になってから身体的特徴が書いてあったり、追加エピがあったりと陳寿さん&注釈者さんの編集がグダってるんで(笑)


太史慈。字は子義。東莱郡黄県の人。

慈長七尺七寸、美鬚髯、猿臂善射、弦不虚發。

身長は七尺七寸。美鬚美髯で腕は長くして射術は上手く、弦音を発する事なく矢を射つ事が出来た。

↑この直後の原文を読むと楼上(櫓)で罵声を上げてた賊を腕のみを狙って射貫くといった妙技を披露した。とある。

射術に於いては百発百中の腕前で馬上での射術でも外す事は無かった。呂布や董卓も馬上での射術に優れていたので彼らに比肩するぐらいの力量はあったと思われる。この件に関しては郡官吏時代の話の後で少し触れたいと思う。


つづく

レス328 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-42子狼)
12/19 19:21
 
【太史慈を語るB】
若い時の太史慈は学問を好み、東來郡の奏曹史(文官)として郡吏をやっていた。
青州と東來郡の間で問題が生じており、京師に先に上奏した方が話が有利となると言う決め事があるとして上奏の準備をしていた。(根拠は不明。おそらくは十常侍に先に話をつけろみたいな流れか?)

州と郡は現状打破のため使者を遣わせたが、郡は州の使者より出発が遅れていた。
当時21歳の太史慈は出遅れた郡の使者と供に出発した。かなり強行して州の使者より先に京師に着く事が出来た。
州の使者が門に近づくと太史慈は引き止めた。使者は太史慈が郡吏と気づかずに話を聞く。

太史慈『奏章は運んでいるのか?』
使者『そうだ』
太史慈『奏章は何処に置かれた?』
使者『車上に』
太史慈『奏章に過ちが無いか確認をした方が良いと思うが』
使者は太史慈の言を信じて車上にある奏章を取り出して確認をする。その時、太史慈は懐刀で奏章を両断した。
使者は驚いて『何をするんだ』と声を上げた。
太史慈は『君が奏章を取り出さなければ斬る事が出来なかった。これは君にも責任がある。私はこのまま郡吏を捨てて発つが君もどうか?このままでは君も危うい』
使者は任務を失敗した罪を恐れて太史慈の言に乗り落ちた。太史慈は青州刺史に狙われると思って遼東に逐電した。

一方、遅れた郡の使者は京師に到着していた。青州刺史は州の使者が行方を絶った事で再度使者を発てたが既に手遅れであった。
この件により太史慈の名声は上がったが、汚名もまた着る事になった。この事件は後々まで尾を引く事になる。

つづく

レス329 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-42子狼)
12/21 02:24
 
【太史慈を語るC】
ここまでが太史慈の郡吏時代です。21歳の文官が遼東に落ちてしまいましたね。
太史慈が弓の名手の片鱗を見せるのは次の孔融を救出する時です。

【この時代の武に長けてる人の共通点】
@若い時に賊と戦ってる
A北狄や西戎が国境を侵すような地域に住んでいる

@は公孫サン、孫堅、陶謙、馬騰、馬超、夏侯惇、甘寧(賊はお前だから)がこのパターン
Aは董卓、呂布、公孫サン、劉備、張飛、馬騰、馬超、趙雲、張遼がこのパターン。陶謙に至っては幽州刺史にもなっているので、A分類に入れても問題ない


そして21歳で遼東に落ちた太史慈は@Aに当てはまる事になる。おそらく遼東の地で騎馬と弓の技術を修得したのであろう。

次回は孔融救出のお話です。

つづく


レス330 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/927-1メカ狼)
12/21 17:37
 
【太史慈を語るD】
孔融は太史慈と言う郡吏の話を聞いて興味を抱き、太史慈の母を訪ねて太史慈の現在の所在を確認した。

↑どうも孔融は太史慈の家に頻繁に訪れていた様で来る度に贈り物を太史慈の母に手渡していた。

時は流れた。
孔融は都昌にて黄巾に包囲され、身動きが取れなくなっていた。
同じ頃、太史慈は遼東から実家に帰って来た。
母は孔融の窮地を太史慈に話した。
母『孔北海(孔融)とは面識が無いのに汝を訪ねては過分にも色々としてくれました。今は賊に囲まれていると聞きます。汝は赴かねばなりません』

母の言を聞いた太史慈は単身で都昌へ向かった。


つづく

レス331 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/927-1メカ狼)
12/23 06:40
 
【太史慈を語るE】
黄巾の包囲は厚く突破は難しかった。太史慈は夜陰に乗じて入城を果たした。
孔融との謁見で太史慈は交戦を主張したが、北海相の立場から籠城を命じ救援を待った。
籠城から数日が経ち、包囲はより一層厚くなった。
孔融は同じく州内で相をやっている平原相劉備に救援要請をしたかったが、包囲を突破する事は儘ならなかった。
そこで太史慈は単騎で救援要請を行う旨を孔融に告げる。孔融は言った。

孔融『この包囲突破は無理だと皆は言う。そなたの勇をもってしてもこれは難しいのでは?』
太史慈『母が此処に遣った理由はこんな時のためです。』

孔融は頷いた。
こうして太史慈は策を講じて包囲突破を図る事になった。


つづく

レス332 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/902-96黒狼)
12/25 18:26
 
【太史慈を語るF】
夜が明けると太史慈は弓袋と弓を持ち単騎で門を出る。暫くして僚騎が的を持って追う。的を地面に打ち立てると先行していた太史慈は振り返って的を射つ。矢の命中を確認すると門に引き返した。
黄巾は敵の出撃に慌てたが単騎の武者が演武を行っただけと知ると再び包囲に専念した。
翌日、再び単騎で的を射つと門に引き返した。
これが連日続くと黄巾も関心を無くしていった。

数日後、太史慈は門を出ると今度こそ馬に鞭を入れて包囲から脱した。


於是下鞭馬直突圍中馳去。

↑これ原文の一文であるが、ちゃんとこの時代に鞭が有ったのだなと感心してしまった。
因みに鉄鞭とかの棒状のタイプは唐時代に確立したので、ここで言う鞭は革製の鞭となる。


つづく


レス333 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-7北狼)
12/28 19:00
 
【太史慈を語るG】
包囲を抜けた事に気づいた黄巾は追撃を始めた。太史慈は振り返って追撃隊に弓を射つ。そして弦音が鳴る度に賊は倒れていった。(死者は数名とあるので明確には不明)

たった一騎相手に返り討ちにされた黄巾は追撃を諦めた。

太史慈は平原に居る劉備と会見した。
太史慈『私は東莱の者で孔北海とは親しくはありません。ただ分災共患の義を有しております。そしてあなたには人を救いうる仁義がある。北海は今も包囲されてます。私が包囲突破して来た意味を察して欲しい』
劉備『あの孔北海は世に劉備がいる事を知っておられたのか』

劉備は平原の精兵三千を北海に派遣した。


つづく


レス334 - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/901-29月狼)
01/01 14:40
 
【太史慈を語るH】
太史慈は平原の軍を連れて北海に戻る。黄巾は援軍が来たと知ると包囲を解いて四散した。こうして孔融は救出された。
孔融は太史慈に『そなたは我が少友だ』と讃えた。太史慈は母に孔融の言葉を伝えると母は『これで孔北海に報恩出来ましたね。私は嬉しく思います』と言って喜んだ。

注:少友とは年少者の友の事。もしくは世代が離れている友を指す。

↑この件が落ち着くと太史慈は劉ヨウの下に行く話になります。揚州争乱編ですね。

【揚州争乱を簡単に説明してみる】
193年に袁術が曹操を攻めるが退路を絶たれて揚州方面に転進します。(匡亭の戦い)
この転進理由は袁術の故吏や知己の陳ウ等が揚州に居たからである。

この年、揚州刺史の陳温が病死したところから争乱が始まる。まずは袁術が陳ウを揚州刺史に据えるようにした。袁術の残虐性を知っている陳温の盟友だった周キンは袁紹側に付いて抵抗を開始。この間に袁紹は従兄の袁遺を揚州刺史として派遣する。
陳ウと袁遺は戦い、袁遺は徐州へ敗走中に部下に殺された。(袁遺は袁伯業の事です。曹操は長大にして勉学を励む人物は我と伯業のみだと称賛した事で有名)
一方、袁術は周キンの抵抗に手を焼いて寿春に入れないでいた。
この時、陳ウは袁術を見限った。袁術は自身が任命した陳ウが裏切った事で寿春に軍を進めた。陳ウは和睦を望んだが袁術は許さなかった。陳ウは袁術に敗れて徐州へと落ちた。(陳ウは後に太守として再登場する)
袁術が寿春に入った頃、漢朝は陳温の次の刺史を選ぶ。それが劉ヨウである。

劉ヨウを語るスレで語りましたが、劉ヨウは寿春に袁術が居座っていたので入れなかった。そして治所を曲阿に移した。曲阿にいた呉景等は劉ヨウを迎え入れたが反発して劉ヨウと戦う事になる。劉ヨウが袁術派の呉景と争う事になった頃に州牧となり州軍を掌握する。
この状態から太史慈は曲阿入りを果たす事になる。そして孫策は呉景の援軍として急進を始めた。

つづく



レス335 (最新) - ツイート/いいね! - URL
名前:月友(Android/924-45紅狼)
01/12 14:07
 
【太史慈を語るI】
揚州刺史劉ヨウと太史慈は同郡の人。遼東より戻った太史慈はまだ劉ヨウと面識は無かった。劉ヨウが曲阿に居ると判ると太史慈は曲阿に会いにいった。劉ヨウと会見して去る前に孫策が来襲した。

↑これは遼東より帰還してからの話で孔融救出がスパッと外されている。孔融救出は後付けの美談ネタだった可能性が出てきた。が次の内容から太史慈の武威が曲阿まで響いている事が分かり、ただの美談ネタと一蹴は出来なくなる。

ある者が劉ヨウに進言した。『太史慈を大将にして対応させては?』と。
劉ヨウ『太史子義を用いれば許子将に嘲笑されるかもしれない』

劉ヨウは太史慈を大将にせず孫策軍の偵察をさせた。

↑この話から察するに太史慈は会見しに来ただけの只の客人。帰る前に来襲されたのだから客将扱いで偵察をさせたと思う。許子将云々で大将にさせなかったのはちょっと違う気がする。と言うか大将ネタと孔融ネタは太史慈の株を上げる為のネタに思えてきた。大将・孔融ネタを外して読み直せば、偵察任務は意外と違和感の無い配置。皆さんはどう思いますか?


つづく


 

 
←前
最初新着レス
このスレッドに返信

 
競馬VISTA
競馬VISTA競馬VISTA掲示板スレ一覧